陽のかたち / 高松伸 / ★★★★

本書では、ヨーロッパでの旅行で感じたこと、スケッチが前半で描かれ、後半で抽象的な自己の思想が描かれる。この要約・感想では、後半の抽象的な文章の中で印象的な箇所を纏める。設計思想を深く掘り下げた内容となっており、非常に興味深い。特にJA1993に記載された「余白へ」は思想の変遷がわかる内容である。現在の文章を見てみたい。

 

・常にことばである

今まで言葉と事物の間の距離を半ば強引に縮めることを考え続けてきたように思う(建築の直喩)。とはいえ、言葉と建築の関係性を容易く語れるほど安易なものではない。そこで用いられる言葉が潤沢であればあるほど、明澄であればあるほど、逆にそれだけ一層強力に自らを失明すべく機能し、そうすることによって培養力を育んでゆく理想的な環状の培地としての建築。従って、そのような建築は可能な限り閉じられた状態で開発されなければならない。個人的な研究の形を取らざるを得ないこういった作業の有効性はインヴィートロな国境内での完成度にのみ依存すると考えたからだ。言葉やものを生産する行為ではなく、あくまでも培養基を開発する研究に近いもの。そこではほとんどの尺度が無効となる。

現在の僕の仕事は「言葉は言葉についての言葉である」という認識の冷徹さ、いわば熱しえてんの冷酷さとはまだまだ遠くへ隔たったところにある。僕の抱いている野心は「建築の発生に関わること」、発生という一種の事故に立ち会うことだ。言語への関心と建築を終始混同してきた。それは言葉が峻別されることによって言葉となる不幸と同じ不幸を建築にも感じたからだ。そんな暴力にのみ関心がある。新しさは危険に介入することによってのみ見いだせるというのがオプティミズムだからだ。 

 

・素材の時制

素材には時間さえも備わっている。「素材には固有の時制がある」ものの所在をしっかりと濃密に定めるためには、マイクロスコープと分光器となによりも針のように震えることばで、ものの時制をゆるゆると読み解くことから始めねばならない。

 

 ・失われた庭園(エデン)を求めて

全ての空間は欲望の塊である。欲望とは所有せんとする意思の全てであり、空間は世界所有の形式的な現れとなる。その淫らな欲望が顕著なのが、庭園という空間形式である。建築や絵画でさえ鏡像として機能化してしまう。特に整合性に貫かれたフランス式古典主義庭園こそ最初で最後に官能のサブライムへと導くことを可能にした形式。計り知れぬものなど視姦の栄誉に値せずというほど数学の気高さ・詩の明瞭さでまざまざと配列されてある。世界は切り刻まれて陵辱されたあげく一人一人に分かち与えられることになる。人の数ほど世界が存在するという次第である。もう庭園(エデン)は誰のものでもなくなってしまった。

 

・恋の機械

フィリップ・スタルクリストランテ・マニンによって彗星の如く日本の建築界に登場し、魅了した。椅子ではあるのだがそれと同時に全くそうではない何かでもある。彼は単車マニアであるが、僕はあらゆるデザイナーを2つに分類している。単車に跨がないヤツと跨いだりときには寝ることができるヤツ。前者をデザイナーだと思っていない。

 

・Less is More

ポストモダニズムという恣意的な様式選択の狂乱を超えて、時代の建築のある一群は今、明らかに特定の方向へ航路を定めたように見える。ポストモダニズムは貧困の焼き直しによる新たなる消費のデザインでしかなかった。ところがジャン・ヌーベルの無限の塔、ドミニク・ペローの国立図書館、ソレアによるパリ国際競技場、レムによるリル駅再開発、チュミによるヴィデオシアターなど近代的合理性の内側から超えていくような表現に幾つか出会うようになった。この所の僕の建築は私なりの探査衛星のようなもでのある。だが、合理的・理性的なるものが要請する貧しさの中にこそ豊かなる空間の手がかりがあるのかもしれないという予感だけは確実にある。「Less is More」我々は再び遠い円環を描いた末にミースへとたどり着くことになったのだ。

 

・余白へ

自分のオフィスを開設して以来、十数年大きな問題もなく設計という仕事を続けてこれた。これまでの仕事を振り返り、設計の思考のあり方の推移を整理するのも無駄ではない。その際何より重要なのは「現在」という時制における視線の張り巡らす力学的な場の存在である。

私の建築は、仕事場と仕事が置かれている「京都」の微妙に歪んだ都市構造に大きく影響を受ける。京都は日本の出自と変成におけるダイナミズム、加えて保守性を見事なまでに象徴する都市である。「外在的なるもの」と「土着的なるもの」との二極は常に不可侵であり、全ての京都なるものは1つの例外もなく最終的にその一方に属することになる。その二重の存立形式が常に1つの事象において掃除にアンヴィヴァレンツな現れとしての価値を形成し、それが絶大なる教徒的なるものを築いている。

都市は都市そのものではなく、栄えあるあらわれのそれぞれの局面において流動的かつ象徴的な力学圏の総体である。あまたの都市は都市であることの所以を非局在化によって喪失するが京都は例外であり都市で有り続けるために自らを局在化する。そのため建築的所業の大半はその都度描き切られた国境の内部深くに飲み込まれた上での無国籍的なる運動の記録となった。しかしながら局在化した戦線における局在化した喪失の戦略が新たなる建築的隠喩の生産回路に通底し得なかったとはそう簡単に言い切れない。

孤独な都市の孤独な建築的隠喩を辿っていくのもあながち無駄ではないのかもしれない。重要なものを下記に記す。

①縮小した尺度:ヒューマンスケールとは別の尺度が深々と潜んでいる。我々の妥当な空間的認識を達成している尺度と比較する限り、著しく萎縮した尺度の体系としてこの都市の都市性の局在化と偏在化を促している。

②非階層的なる階層性:空間的階層の曖昧性と空間的分節の脆弱さである。これは、都市秩序によってか細い単位に分断された極端に間延びしたプロポーションの私有空間の中で生活が求める空間の柔軟な階層性を達成するべく育てられたものに違いない。

③深い表面:都市は表面の連鎖であって、大いなる巨象こそ都市である。この都市の表面性は、叩き込まれた象徴性、豊潤なる孤独が織りなす表面性である。

④見立てと合理化:合理化のシステムを如実に現前化するシステムが見立てである。それは現実とどの彼方が同時に存在することになるため、美しい。ほとんどの建築の魅力はここである。

現在の私の興味は全く別のところに移りつつある。またその場所への移行の動力は「建築は一握りの隠喩にしかすぎない」ことである。今は「日本庭園」や「書」を改めて紐解く時のようだ。それは「積極的な余白」とでも表記すべき特殊な空間認識にダイレクトに影響するからである。それは大型の複合公共建築への関与が発端であり、設計過程において極端な堅固に作成されたプログラムに正確に即応して設計することは、計量化しえない無限の豊かさを厳密に削除していゆくことであり、一種の制御された貧困化の過程以外のなにものでもないことに気づいたからである。そのような不可逆的な空虚の生産を「積極的な余白」という概念を意識的に擁立することによって救出することができるかもしれないという考えに至った。システムの図像は明快で序列的な構造を持っているが、それを改めて線分で緊結する線分そのものを空間化する手段を持ち合わせていない。その線分を広大なる非プログラムの領域として捉えなおし、計量化された行動以外の様々なる可能的なる行為を受け入れる非定義的な空間として積極的に定義できるのではないかという逆説的な仮説を立てた。「積極的なる余白」その仮説に沿って幾つかの建築がその姿を現し始めた。

現在の私はほとんど過去とは無縁の存在であろうとしている。だが新しくかつ単純な仮説が今渡しを圧倒的に魅了している。